残業が当たり前の職場にいると、まず鈍るのは体より時間の感覚のほうです。定時で帰る人を見て珍しいと感じる。22時の退社を「今日は早い」と言う。周りが唯一の基準になっているあいだは、自分がどれだけ働いているかを数字で答えられません。話の順番は、基準がずれていく過程、実際の時間の数え方、行政が線を引いている数字、そのあとに動かせるものです。
基準が周囲しかなくなると、感覚のほうが先に動く
人は労働時間の長さを、絶対量より周囲との比較で受け取ります。全員が21時まで残る職場では、20時の退社が早退のように感じられます。動いたのは感じ方で、体にかかっている負荷は変わっていません。
ずれ方には、だいたいの時期があります。
- 入って1ヶ月から3ヶ月 長いと感じます。帰る時間を気にして、前の職場や学生時代と比べます
- 半年 遅い退社が普通に見えてきます。定時で帰るときに、理由を用意するようになります
- 1年以降 残業時間を聞かれても答えられません。「まあ、普通です」と言うようになります
3つ目まで来ると、判断の材料が自分の中から消えます。危ないのはここからです。多いか少ないかを決めているのは職場の平均で、その平均が外からどう見えるかは、誰も教えてくれません。1年以上いて時間を数えていないなら、感覚のほうが職場に合わせて動いたのだと思います。
有給を出すという選択肢が最初から頭に浮かばないなら、終業時刻と同じずれが休みの側にも出ています。休みが取れない状態が続くときに、休暇が後回しになる順番の話があります。
実際の時間を、2週間だけ数える
記憶で答えると、労働時間はたいてい実際より短く出ます。出社時刻、退社時刻、休憩の実分数、自宅での作業時間。この4つを2週間だけメモすると、感覚のほうが訂正されます。
書き方は雑なままでいいので、日付と数字が並ぶようにだけしておきます。
- 出社と退社は、席に着いた時刻と建物を出た時刻で書きます
- 昼休みに席で作業した日は、休憩を0分と書きます。ここを45分と書くと、月に15時間ずれます
- 自宅での確認や返信も、5分単位で足します
- 持ち帰りの資料作成は、開いた時刻と閉じた時刻をそのまま書きます
- 移動が業務の一部なら分けて書いておきます。判断は後回しで構いません
2週間分を合計して2倍すると、月あたりの概算が出ます。そこから所定労働時間を引いた残りが、時間外のおおよその量です。週40時間の会社なら、月の所定は年間の休日数によって160時間から173時間ほどになります。
数字が出ると、拍子抜けするか、逆に驚くかのどちらかになりがちです。「そんなに多くない気がしていた」が月70時間だったり、「かなり多いはず」が月30時間だったりする。どちらに出ても、ここでの使い道は同じです。ほしいのは自分を責める材料より、外と比べられる目盛りのほうです。
行政が線を引いている数字がある
労災の認定では、時間外労働の長さが一つの目安として使われています。発症前1ヶ月でおおむね100時間、または発症前2ヶ月から6ヶ月の平均でおおむね月80時間。この水準が、健康障害との関連が強いとされています。過労死ラインと呼ばれる数字です。これは診断の基準というより、行政が線を引いた目安になります。
もうひとつ、時間外労働の上限そのものにも決まりがあります。労使協定を結んでも、原則は月45時間・年360時間です。特別条項をつけた場合でも、年720時間、単月100時間未満、複数月の平均で80時間以内という枠が法律で決まっています。
体を壊すかどうかは、この数字だけで決まりません。個人差も大きく、通勤時間や睡眠の量でも変わります。それでも、自分の数字が枠のどのあたりにあるかは、感覚に頼らず数で言えるようになります。それだけで、周囲との比較から一度降りられます。
体のほうに出ているサインも、目安になります。
- 睡眠が6時間を切る日が、2週間以上続いている
- 休日に寝ても回復せず、月曜の朝に前の週の疲れが残っている
- 通勤の途中で動悸がする、涙が出る日がある
- 食欲の変化が続いて、体重が短い期間で動いている
このどれかが続いているなら、時間の話より先です。数え終わるのを待つ理由はありません。心療内科かかかりつけ医、または住んでいる地域の精神保健福祉センターに一度状態を伝えてください。夜に誰にも言えないまま起きているなら、こころの健康相談統一ダイヤル(0570-064-556)があります。
数字が出たあとに、社内で動かせるもの
辞めるかどうかの判断は、数字が出たあとでも遅くなりません。先に動かせるものが3つあります。自分の記録を残すこと、業務量を件数と時間で出すこと、締切の順番を上長に決めてもらうこと。どれも今の職場にいたまま試せます。
- 記録を残す 勤怠の打刻が実態と違うなら、自分の側の記録を持っておきます。手帳、メモアプリ、入退館の履歴、端末のログオフ時刻。あとで相談するときの材料になります
- 件数と時間で出す 「忙しい」は動きませんが、「この作業が週12時間」は動きます。作業ごとに時間を並べると、減らす候補が相手にも見えます
- 順番を渡す 全部を同時に持たない形にします。「どれを先に落としますか」と聞くと、判断が上長の側に移ります
- 枠を確認する 自分の会社の36協定で、上限が何時間になっているかを見ます。就業規則と一緒に置かれていることが多いです
3つとも試して1ヶ月変わらないなら、そのときは職場の側の話になります。人の配置や受注量のように、一社員の段取りでは動かない層に、原因が移っています。人が足りない、単価の設計が合っていない、受注の量に対して工程が足りていない。個人の段取りで動く範囲を越えています。ここまで来てから外を見ても、判断の材料は減りません。
朝、家を出るまでが重い日が週の半分を超えているなら、順番が変わります。仕事に行きたくない朝を頻度で見る話が近くなります。休んでも戻らない疲れが先にあるなら、回復の順番は燃え尽き症候群からの回復で追えます。
公的な窓口は、辞める前でも使える
労働時間の相談は、退職を決めてからでなくても持ち込めます。総合労働相談コーナーは全国の労働局と労働基準監督署に置かれていて、予約なし・無料で相談できます。違法な時間外労働や残業代の未払いなら、労働基準監督署が直接の窓口になります。
- 総合労働相談コーナー 労働条件、いじめ、退職の相談まで幅広く受けます。会社に連絡が行くかどうかは、相談の段階で確認できます
- 労働基準監督署 法違反の疑いがあるときの窓口です。記録した時間、給与明細、就業規則、雇用契約書を持っていくと話が早く進みます
- 労働条件相談ほっとライン 夜間と土日も受け付けている電話窓口です。日中に電話できない人向けに用意されています
匿名でも相談できます。会社に伝わることを避けたい段階なら、その希望を最初に伝えてください。相談したことが会社に知られるのを理由に、不利益な扱いをすることは法律で禁じられています。
持っていくときは、2週間の記録がそのまま材料になります。感覚で説明するより、日付と時刻が並んだメモのほうが、相手の側でも扱いやすく、それ以上の準備は要りません。
感覚を戻すのに、職場を変えなくてもできること
鈍った時間の感覚は、外の目盛りに触れると戻ります。半日もかかりません。同業の求人票に載っている所定労働時間を見る、学生時代の友人に終業時刻を聞く、労働時間の統計を1つ見る。どれも15分ほどで終わる作業です。
- 求人サイトで、同じ職種の「平均残業時間」の表記を10件だけ見ます
- 別の会社にいる友人に、何時に帰っているかを一度だけ聞きます
- 自分の月の残業時間を、45時間・80時間・100時間の3つの線と並べます
比べる目的は、自分の職場を悪く言うことより、数字の置き場所を職場の平均から外へ移すところにあります。目盛りが外に1つあるだけで、次に何かを決めるときの材料が変わります。
目盛りが増えると、判断の速さも変わります。月70時間だと分かっている人は、次に仕事が増えたときに「あと何時間まで受けられるか」で答えられます。数字を持っていないと、受けるか断るかの二択になって、たいていは受けるほうに倒れます。断る材料を持つために数えておく、という言い方のほうが近いかもしれません。
よくある質問
残業代が全部出ていれば、問題はないのでしょうか
支払いと健康は別の話になります。残業代が満額出ていても、月80時間を超える状態が続けば体への負荷は同じです。金額で納得している場合ほど、時間のほうを数え直しておくと、後から比べる材料が手元に残ります。
みなし残業(固定残業代)の場合はどう数えればいいですか
契約書に「何時間分」と書かれているはずなので、その時間を先に確認します。その枠を超えた分は別に支払われる決まりです。実際の時間を2週間数えて枠と比べると、超過分が出ているかどうかが分かります。
上司も同じだけ残っているので、言い出せません
上司の労働時間は、あなたの上限を決める根拠になりません。伝えるときも、比較ではなく自分の作業の内訳で話すほうが動きます。「この作業が週12時間かかっているので、順番を決めてほしい」の形にすると、相手も答えやすくなります。
繁忙期だけ長いのは、数えても意味がありますか
意味があります。行政の目安が2ヶ月から6ヶ月の平均で見ているのは、そのためです。繁忙期の月だけ切り出すと過大に、平常月だけ切り出すと過小に出ます。3ヶ月分を並べると、実態に近い数字になります。
記録を残すと、会社と揉めることになりませんか
記録は、揉めるための道具というより、話すときの材料です。出す相手と時期は自分で決められますし、出さないまま持っておくこともできます。持っていない状態で相談に行くと、相手の側でも判断が止まってしまいます。

